昭和45年09月23日 夜の御理解



 朝の御祈念が済んで丁度、熊谷さん達がいつもお参りになって、御理解をテープで頂かれておる時でしたが丁度、小野先生も何時もあの時間にお参りをするんです。一緒にテープを頂いておりました。そしたら医院の方から電話が掛って来てから、急患ですから直ぐ帰ってくれと云うて電話が掛って来た。それで取り合えずどう言う事か分からんけれどと、御願いして帰らせて頂いたら、直ぐ電話が折り返し掛って参りましてから。前にも一回それで大変難渋した方だったそうですけども。
 今日はあいにくとお休みで、血液が沢山必要だけれど、今日は日曜でどうにも出来ない日に運悪く当っておりますと、とにかく今のままでは、死を待つより外にないという様に、緊急した状態だと言う事を、電話で掛けて来ておりました。けれども私が今日も何時も朝には下がりますから、下がらして頂こうと思うて、いっぺん立ってから又用件があったから座った時でしたもん、そのお届けがあったのが。
 ですから私は下がってからでも、あの先生の事ですから必ず親先生を呼んで下さいと言うに違いないんですけども。そうしておかげを頂くのではなくてそうしてその神様が待っておって下さった様に、御結界でピシャッと受け止めて下さった。そらおかげ頂くよ手術しなければ助からないなら、手術をしなさいと私が申しましたら、それが血圧が低くて出来ない。とにかく神様に御願いしておかげ頂きなさいと。
 手術しなければ助からんのなら、それでもおかげ頂く以外にないと言うて、私は電話で一口申しておりました。そしたら御霊様のお祭りが済みましてから、又電話が掛って来た。おかげで無事に済んでまぁこのままなら、一命を取り留めるだろうと言う意味の、御礼の電話だったそうですけれども。ほんとに世のお役に立たせて頂くと、お医者さんなんかの場合なんかは、ほんとに、人の命が助かる助からないと言う所を、神様に御願いをして、是は小野病院の信用に拘るとか、拘らないとかじゃない。
 もう愈々の時にはです、助けて貰わにゃいけんですから、切実に願われる訳ですね。私は願いとはそんなもんだと思うね。もうとにかく人が助からなければならん、そういう意味で、お医者さんなんかは切実に願われる訳ですね。私はその事を思うと同時に、おかげ下さる時には、何か神様がここで待ち受けておって下さる、何かそういう様なものを感じます。今日、高橋さんがお参りされてお届けされる内容の事からもでしたけれど、今日あのように午前中、それこそしのつく雨でしたからね。
 雨ひどう御座いましたが、今日は野球が平和台であっておるんです。三百五十からの弁当の注文があっとりますけれども、この雨じゃどうにも仕様がないから、店では作り止めると言いよりますからと、こう言うからそげな事があるもんの、注文が来とるとなら作りなさいと、私が言うたんですけれども、おかげで今日は後がお天気でしたから、作っておって良かったろう、おかげになったじゃろうと思うとるんですけれどね。そう言う時でも、何か神様が受けて下さると言う様な。
 お取次を願わせて貰う一つのタイミングと言った様なものが、素晴らしい時にですね、そう言う事が平気でお取次される気がします。例えば雨が降りよっても、注文があっとるじゃないの、作り止めるなんてん、止めずに作りなさいと言う様なおかげを頂かれる。その辺のお繰り合わせの具合をね、何とも言えんことですね。只今妹がお届けさせて頂いておりますのに、昨夜お夢を頂いてから夢の実感は、妹でなからにゃ分からんのですけれども。神様がというですから。
神様はどういう事か分からんのですけれども神様がね、池尻家の御霊様方がずっと座っておられる座の所から、神様が池尻家の御霊様方、全部一段上の方にずっと座れと言うて、上の座を頂いておる所を頂いたとこう言うておる。まぁほんとに有り難いな、信心が少しずつでも進ませて頂きよら、矢張り御霊様迄一段と上の位に進められておられると。まぁ言う様な今日のお祭りのこぼれ話と言った様な話をするなら。
 沢山色々ありましたね。ありましたけれどもその中から。私は私共の信心が一段一段進んでいくという事は、結局合楽の信心合楽で頂いておる人達は、合楽の信心に、矢張りしがみつきながら、又は便乗しながら信心が進められていかなければならん。願いという様なことを。お医者方がもうこの病人は難しかろうかという様な時でも、矢張り助けて貰わにゃならんという、どうでもという願いはもう商売気は離れての事。
 そして願われるそこに人が助りさえすればとか。世のお役に立つと言った様な一心がそこに出てくる。だからそういう願いというものを、何時も持っておると言う事がです、そういう願いを持っておると言う事が、いざという時の場合にです。私は出てくるのじゃないかとこう思いますね。だから今願え願えと、原さんがお届けされますように、どげん考えたっちゃ願えの信心が。
 喉に引っ掛ったごとしてから出らんとこう言いよりなさいます。確かそういう様な感じがするでしょう。けれどもやはりそれでも稽古して、まさかの時何かの時には願わせて貰う、その世のお役に立つ信心が出てくるんじゃないかという風に思います。為に例えばほんなら、妹の所の御霊様じゃないけれども、一年一年言うなら、一段一段信心のお互いの座というものが高められて行く様なおかげを頂いて行きたいという風に思いますね。
   どうぞ。